丹道夫の生い立ちがすごい!弟や息子が気になる!学歴や経歴を調査!

超ホワイト経営で知られる名代富士そば創業者の丹道夫さん

名代富士そばは、現在、都内を中心に、埼玉、神奈川、千葉を含む合計128店舗を数え、

一日その数約7万食を売り上げています

2013年からは、新たな成長の柱として海外へも進出。

台湾、フィリピン、シンガポールなどでフランチャイズ展開をはじめています。

 

なぜ一代でこれだけの規模の立ち食いそばの一大チェーンを築くことに成功したのでしょうか。

今回は、そんな丹さんについて調べてみました。

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丹道夫のプロフィール

  • 名前:丹道夫(たん みちお)
  • 生年月日:1935年12月15日
  • 出身地:愛媛県新居郡大保木村(現在:西条市)
  • 血液型:A型
  • 最終学歴:東京栄養食糧専門学校

 

1935年名古屋市に生まれた丹さん。

生後すぐに父親を亡くし、母親の実家である愛媛県新居郡大保木村(現在の西条市)に移り住みます。

四国で育った丹さんは、地元の高校を中退し、上京を試みては夢破れて帰郷を繰り返します。

 

1回目は面接で不採用になって帰郷。

 

2回目は電車を間違えて福島の炭鉱で働いたこともあるそうですw

その後、なんとか上京し東京の印刷所で働き口をみつけたものの、

住み込み先で南京虫(トコジラミ)に襲われて倒れてしまいます。

 

3回目は東京栄養食糧専門学校を入学、

卒業後、都内の病院で栄養士として就職した矢先、

義父が病気で倒れ、帰らざるをえませんでした。

 

4回目の上京でやっと定住することができます。

給食センターの勤務を経て、埼玉県川口市で主に工場向けの弁当屋を開業。

弁当屋を成功させると、不動産事業に乗り出し急成長を遂げます。

そして、事業の一つとして1966年、

富士そばの原点となる日本初の24時間営業の立ち食いそば店を渋谷にてスタートさせます。

 

丹道夫の生い立ちがすごい!

生後すぐに父親を亡くした丹さん。

母は息子を育てるため、芸者として座敷に上がり生計を立てますが、

山林調査を生業とする男性と再婚。

再婚当初、義父は丹さんにとてもやさしいかったといいます。

ところが、そんな義父が弟の誕生とともにコロッと激変してしまいます。

「5歳の僕を、まるで奴隷のように扱い始めた

と丹さんは当時を振り返ります。

 

義父は躾(しつけ)と称して、丹さんに厳しく当たります。

丹さんは、川に行って風呂の水を汲み、山に入って薪を拾い

その他にも300坪の畑の手入れをはじめ、掃除と連日、連夜の重労働が永遠続きました。

 

そんなある日、食卓でのできごと。

その日のおかずはお母さんの得意な小エビと大根の煮物。

醤油のトロリとした照りがいかにも食欲をそそったそうです。

ところが義父からの「さあ食べろ」の声に丹さんが箸をのばすと、

義父から音がするほど強烈に箸で手を打たれたそうです。

「食べろといって食べようと手をのばしたら叩く。僕に食べさせるのが惜しかったんだね、義父は。(5歳の子に)こんなこと、普通できないでしょう! 義父からは“命余って銭足らず(寿命までにお金が足りなくなってしまわないようまじめに働けの意)”とか、今につながるいろんなことを教わりました。でも今でも義父のことは好きになれない。金儲けはうまかったけど、愛がなかったんです」

と。

 

こんな義父には、母親もまた苦労したそうです。

丹さんの母は病弱だったそうですが、

義父は治療のためのお金は一切出さなかったそうです。

 

医療費は、お母さんが自分の指輪や帯留めを売ってなんとか工面していたそうです。

義父のもとから早くひとり立ちしたい」。

自然とそれが、強い思いとなって募っていきました。

 

その一方で、丹さんのお母さんが再婚した理由は、

丹さんに十分な教育をさせたかったからだといいます。

「道夫、勉強しなければダメだ」

これがお母さんの口癖だったそうです。

そんな母の願いもあり、

丹さんは山を20キロも下ったところにある愛媛県立西条南高等学校農業科定時制に入学します。

学費は、お母さんが畑で取れた作物で醤油や味噌を作っては夫の目を盗み、

近所で売って工面してくれていたそうです。

 

ですが、母親の苦労の末に入学させてもらった高校を、

丹さんはわずか1学期で中退してしまいます。

「中学でいた組からは4名が高校に行ったんだけど、20キロもあるから通いきれない。4人でアパートを借りたけど、食事を作る人もいないし。長続きはしなかった」

 

母親が嘆く中、義父のすすめで八百屋さんに年季奉公をするが、これも長くは続かない。

「ひとりで店番をしなくちゃならなくて、それがなんとも寂しくてね……」

 

銭湯でガソリンスタンドの店員と知り合い、誘われて転職するが、

高級石けんを1つ買うと給料の大半がなくなるほどの薄給に嫌気がさしたといいます。

ここも1年3か月で退職してしまいます。

 

さらには中学の恩師からの誘いではじめての上京。

母親の猛反対にも耳を貸さず、

人形町の着物問屋で面接を受けるが、これもまた失敗してしまいます。

 

ですが、このとき運命的な出会いがあります。

「神田でね、面接終わって生まれて初めてそばを食べた。実はそれまで食べたことがなかったの。四国はうどんだからね。ざるそばで、“こんなに食べられない!”と思ったら、ざるで上げ底になっていてね(笑)」

と、笑顔で語る丹さん。

 

夢破れての帰省でしたが、母親はわが子の帰還を大喜びして迎えてくれました。

帰郷後も二度目の上京の機会を伺っていた丹さんは、

母を説得し、再び夜行列車に飛び乗ります。

 

しかし、東京駅に到着したものの、仕事のあても行くあてもなく、

いざ一人ぼっちになると、急に不安が広がりました。

その時、夜行列車で向かいの席に座った女子大生のことを思い出します。

女子大生は丹さんを心配し「何かあったら連絡しなさい」と電話番号を渡してくれていました。

丹さんは、彼女が住んでいる埼玉の大宮へ向かいます。

ところが、列車を乗り間違えてしまい、たどり着いたのは福島県の湯本駅でした。

湯本は温泉の名所で、「温泉街ならきっと仕事があるはず」と、

湯本で炭鉱の仕事を見つけだします。

黙々と土砂や砂利を運ぶ日々。

そこで働く男たちが度々争いを起こす様子を見て、

丹さんは「男は学問を身につけなければならない」という母の言葉がかすめるようになり、

会社に願い出て高校の夜間部に通います。

 

そして上京を諦めきれず、丹さんは東京に就職先を見つけ、印刷会社に勤務しますが、

南京虫(トコジラミ)によって倒れ、愛媛に帰郷、療養に専念せざるをえませんでした。

 

回復すると、諦めがつかず、またも上京を夢見ます。

それを見兼ねた母親は、丹さんにそっと預金通帳を見せ「栄養学校へ通うなら何とかする」と、

費用を工面してくれました。

 

3度目の上京で栄養士の資格を取り、都内の公立病院で経験を積んだ後、

料理学校の生徒勧誘の仕事に転職した矢先、義父が病に倒れ他界。

故郷への帰郷を余儀なくされてしまいます。

 

丹さんは、あのまま営業職を続けていれば、まったく別の人生を歩んでいたかもしれないといいます。

ですが、この帰省がのちの成功につながったことを思うと、

帰郷はむしろ義父からの最初で最後の贈り物だったのかもしれません。

愛媛に帰った丹さんは、愛媛県西条市で『西条料理教室』を開きます。

医師の奥さんや花嫁修業中の企業経営者の娘さんなど、60名ほどの生徒さんが集まりますが、

当時の四国の小さな商圏では、すぐに行き詰まってしまいます。

 

そして、いつか呼び寄せるからと母に約束。

寝袋片手に4度目の上京を試みます。

 

「もう失敗は許されない」と意気込んだ丹さんは、

まずは栄養学校の恩師の紹介で、食品販売会社に就職。

食品販売会社勤務とは名ばかりで、お弁当をつくる調理の仕事でした。

ですが、この経験が丹さんの成功の端緒となります。

 

栄養学校時代の知り合いからの誘いで独立を決意。

これを機会に、愛媛から母親を呼び寄せます。

愛媛の家を売ったお金を出してもらい、

埼玉県蕨市に家を購入、

その隣にわずか4・5坪の弁当店『東栄給食センター』を開業します。

この新事業が大当たりします。

 

その後、仕事仲間から不動産業への参入を誘われ、

那須高原の別荘地の土地を売る会社を共同経営でスタートさせます。

当時の不動産ブームの波に乗り、月商30億円、社員数1200人の大企業に成長させました。

 

不動産事業を成功させた丹さんは、

あのデヴィ夫人が在籍したことでも知られる高級クラブ『コパカパーナ』で連日豪遊したといいます。

「当時の月給は500万円。給料袋が“立つ”んです。毎日ステーキを食らい、運転手付きの外車で移動し、夜な夜な銀座、赤坂、六本木の高級クラブで豪遊です。少し前まで金がなく、泊まる所さえない人間だったんですから、夢のような暮らしでした」

と当時を語っています。

「だけど、僕は途中で怖くなったのね。こんな商売はいつまでも続くわけがない、と思った。だって、それまでコーヒー一杯飲んでも『ああ、あのお金があったらなあ……』と4日間反省するくらい、お金に不自由していたこともあったんですから。こんな甘い人生はありえない」

と。

 

そして、もしものことがあっても、せめて役員4人は食べていけるようにしておこうと思い、

当時から立ち食いそばの店を4店舗持って運営していたといいます。

そのころは、「そば清」という名前で店を出していました。

友人と経営していた不動産開発の方は結局、1971年に袂(たもと)をわかつことになります。

ちょうど丹さんが奥さんと結婚した年。

その際、丹さんは退職金と一緒に立ち食いそば屋をもらいます。

「当時、そばの値段が1杯40円でしょ。不動産の収入とは比べものにならない。そんなもの誰もいらないっていうことで、僕が全部引き受けることになった」

 

そのそば屋を、現在の「名代富士そば」へと発展させていきます。

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弟や息子が気になる!

丹さんの弟については、その情報が少ないのですが、

丹さんとは、父親が違い、丹さんが5歳のときに生まれています。

また、丹さんが不動産事業に乗り出すときに、

成功させたお弁当屋を譲っています。

 

息子は、現在、名代富士そばを運営するダイタングループの代表取締役に就任しています。

名前は、丹有樹(たん ゆうき)さん

1974年神奈川県生まれ。慶応義塾大学経済学部を卒業しています。

大学卒業後テニスコーチとして働きながら転戦。

プロテニス日本の立ち上げに参加し、

その後立ち食いそば「名代富士そば」を展開するダイタングループに入社。

 

平成27年、丹さんが80歳になったのをきっかけに、

代表取締の役職を有樹さんに譲っています。

 

丹道夫の学歴

丹さんは、地元の村立大保木小学校、村立大保木中学校を卒業後、

愛媛県立西条南高等学校農業科定時制に進学しますが、わずか一学期で中退。

 

その後、二度目の上京で行き先を間違ってしまった丹さん。

19歳のとき福島県の湯本で、福島県立湯本高校夜間部に入学しますが、

職を失い、再度上京、

南京虫(トコジラミ)により帰郷せざるをえなくなり、

郷里の愛媛県立西条高等学校定時制に転入し卒業しています。

 

21歳のときに3度目の上京を果たした丹さん。

母親に学費を工面してもらい東京栄養食糧専門学校に入学。

同校で2年学び、栄養士の免許を取得します。

 

まとめ

壮絶で波乱万丈な人生を歩まれてきた丹さん。

超ホワイト経営で知られるダイタングループは、

これまで歩んできた経験から人とはを熟知している丹さんの経験則によるもの。

 

そして、丹さんはこう語っています。

「社員こそ内部留保(企業の蓄え・財産)なのね。企業は人なり。いい社員がいなければ、会社なんて伸びない。僕はそう思うなあ」

 

 

最後までご覧下さりありがとうございました。

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